金魚の来た道

金魚の故郷は中国といわれております。
いくつかの古い文献によれば、3世紀のはじめ、晋の時代に中国南部地方で金魚の原種と思われる魚が見られたとされています。
10世紀の北宋時代には、宮廷で観賞されるようになり、熱心に金魚を飼育する皇帝もあらわれ、南宋時代には金魚飼育や販売を生業とする者もいたようです。
世界初の金魚の飼育書「硃砂魚譜」が発行されたのは1596年のことです。

金魚の日本への伝来時期は、はっきりとしていないようですが、1748年に刊行された日本初の金魚の飼育手引書「金魚養玩草」(安達喜之著)によれば、1502年 現在の大阪堺市に入ってきたとされています。
当時の日本は室町時代末期の戦乱の世、心を癒す金魚の存在が求められたのだと思いますが、広く一般に普及するまでには至りませんでした。
江戸時代に入り世の中が落ち着きを取り戻すと、一部の大名や豪商などの特権階級の間で金魚飼育が行われるようになりました。
江戸中期以降、金魚養殖も盛んになり、それとともに金魚の価格も求めやすいものとなり、庶民でも背伸びをすれば金魚を手に入れることができるようになりました。
また、オランダ商人を通じてガラスの製造技術が伝えられ、ガラスの金魚鉢も作られていたようです。浮世絵や錦絵などには、ガラス玉の中に泳ぐ金魚の姿が描かれていますね。

江戸時代、江戸での金魚養殖は不忍池付近が発祥の地といわれており、入谷や根津あたりでも行われていたようです。明治に入って本所や深川あたりに移り、その後亀戸や大島、砂町あたりに移動してきました。
明治30年、東京金魚商組合が60の生産者及び卸業者によって設立されました。その頃、
平井に6軒、小松川に1軒の金魚生産者が移転してきたのが江戸川区における金魚養殖のはじまりのようです。
明治22年の統計には、葛西、小松川、篠崎、小岩、平井などが金魚養殖生産地にみられます。
江戸川区内での金魚養殖が盛んになったのは、大正12年の関東大震災以降のことです。

関東大震災後、金魚の需要の増大とともに、小売業者が市街地に次々と誕生しました。それにともない、卸売業者が求められるようになり、養殖業者の中には卸売業者に転換したものもいたようです。また兼業農家で養殖業を営んでいた業者の中には繁忙期が農繁期と重なることから養殖専業になるものが多数みられました。
砂町あたりは、今のように工業が林立する前は池沼が多く、金魚だけでなく鯉や鰻の養殖が盛んに行われていました。
次第に大工場が建設されるようになり、池沼は埋め立てられ、良水の確保も困難となり、養殖業者は江戸川区方面に移ってきました。大正末から昭和はじめ頃が江戸川区に金魚養殖家が一番集中した時といえます。
江戸川区は現在でも金魚のまちであり、公立の小学校には必ずといいっていいほど金魚の泳ぐ水槽や池が設置されています。